うるさいギャラリー

既に水に落ちた私は、水の底より、落ちていく彼らを見ていた。私は、笑っているのか、泣いているのか。



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昨日から始まった展覧会の紹介です。

和田聡文、48歳、機械設計士。まぁ変なおっさんである。2年ほど前から展覧会を見に来るようになる。ウチでやってるほぼ全ての展示を見てくれている。自分の見方をしっかり持ち、いつも幾ばくかの批判的なことを言ってくれる愛すべき変なおっさんである。言ってる事は変なおっさんであるが的確である。気に入った時は見に来て良かった的なことを言って帰っていく。ある日、自分も作品を発表してみる、と言ってきた時はびっくりした。「えっ、和田さん作ってるんですか?」「うん、いくつかあるし新しく作ろうとも思ってる」「面白いじゃないですか。やりましょう。」


・・・・・まさかここまでとは思ってなかった。
自らが経験したリストラという主題でこれだけの物語とファンタジーを作り出すその想像力と妄想、作品に込められた揺ぎ無い執念、それが見事に昇華してもはや何だか分からないがそれを説得力と呼んで差し支えない、と思わせる強度。

気に入るか気に入らないかは見た人次第だと思うけど、他に誰がこんな展覧会を作れるのか、と俺は思う。
時間をかけてじっくり見てほしい。


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既に水に落ちた私は、水の底より、
落ちていく彼らを見ていた。
私は、笑っているのか、泣いているのか。

作家名:和田聡文
期 間:2013年7月11日[木]-7月28日[日]
時 間:木・金18:00-23:00 土・日13:00-21:00
休廊日:月・火・水曜日休廊
料 金:入場無料
場 所:IAF SHOP*(福岡市中央区薬院3-7-19-2F)
問合せ:090-5475-5326(佐藤)

◎展覧会内容
失われた20年を機械設計の現場に生きて、リーマンショックでトドメを刺された昭和40年製のオッサンが、人生焼け糞で美術業界に突入!!
ハロワ通いの道すがら、拾い集めた蝉の抜け殻バケツ一杯と、貝殻バケツ一杯とで、イケナイ臓器を勃ち上げます!!
今回は涙で一杯の8点の立体と、99枚の思い出写真、落書き数点を奉納。
惨めさ99%のポエムと愚痴の神殿が、貴方をじっとり包囲します。
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(作者経歴の添付文)
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■「愚痴の空回り。」

私は美術家でも芸術家でもありません。
機械の開発、設計を生業とする個人であって、「○○家」ではなく、名乗る肩書きはありません。
以下は部外者の発言であって、業界やその周辺で過去に語られた論説/文脈/用語を私は知りません。

■芸術の果たす機能について (東京国立市でのグループ展参加に寄せて)

芸術を行う主体、芸術を受容する社会(観客)にとって、芸術の果たす機能は下記3つであると思います。

(1)装飾/設計(design)
主体/観客にとって、既に価値/存在/構造や細部などの有様が確定している事物/事象/状況を認識/使用/利用しやすくする様に整理/抽象/再構築すること。

(2)表現/具体化(不定のもの/ことに「かたち」を与えること。)
主体/観客にとって、価値/存在/構造や細部などの有様が把握出来ていない事物/事象/状況に、何らかの形/構造または仮定のモデルを与え、主体/観客がその事物/事象/状況を把握しようとすること。(把握出来れば、事物/事象/状況に対応、対処出来る様になる可能性が生まれる。)
一般には既に把握済みとされる対象であっても別な視点、別な構造モデルを提示する行為は、(1)とはせず、これに含む。
   
(3)技法開発/技巧錬磨
(1)(2)の行う為の手段の幅を広げ、また、深化させること。
本来は(1)(2)の手段として間接的に主体/観客の要求を満たす機能だが、人間の他の行為と同様に技芸自身が競技と化し、巧みさや新規さ、超絶的努力をもって作品として提示されることもある。

「(1)装飾/設計」は芸術家が顧客(クライアント)の要請をもって、プロフェッショナルな行為として果たす機能であって、私の立場では担えません。行ってもそれは「自身で消費する」為です。
(機械は「設計」します。私の生業は機械設計ですから。)
「(3)技法開発/技巧錬磨」は本来業界内で消費される機能であって、業界外の私は誇示/競い合いに参加出来ません。そんな技量も才能も教育もありません。(自分で使う範囲での技能/工法の開発は行います。)

生きていく主体として、生業を営む主体として、経験する様々な物事やその関係の前で、私は唯々狼狽し、うろうろするばかりです。そんな私は、狼狽の度に吐瀉物のごとく、落書きや立体や言葉を吐き出します。
それらは他者/観客に示すものではなく、唯、自分自身が事物/事象/状況を把握、得心したいが為です。

よって、行う主体も受容する観客も自分自身でしかない、そんな私が行うのは「(2)表現/具体化」のみです。
私は「芸術家」ではありません。
自分自身のキャラクターにテーマ/コンセプトを貼り付けて、「芸術家になる」わけではありません。

ただ、生きていく主体として、未消化の経験を「表現/具体化」して吐き出し、自身で再消化するのみです。

生体が睡眠時に「夢」を見るのは、覚醒時の雑多な経験を整理、抽象し、有用な情報として統合する為だという説を聞いたことがあります。(現代の学説では否定されていますが。)
「芸術」の「表現」のもつ目的/価値とは、そんな「夢の機能」の様なものかもしれません。
「表現-すること=夢に見ること=対象を捉えようとあがくこと」は「芸術家」の行為とは限りません。

社会人としての二十数年、私の「表現」は、私の中に閉じていました。
議事録の裏に、PCのデータに、計算書の端に、台風跡の海岸に、音響データに、一人で見返す写真の中に。
吐き出される「表現」は公開されず、主体/観客の関係は閉じていました。

回路を他者に開くのは二十数年ぶりです。
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by iaf_satokei | 2013-07-13 00:55 | Comments(0)